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ひなこのーと 1期2話

 このアニメのEDを聴いているとこの曲を思い出すんだけど、こういう曲ってどういうもんなんだろう。どの基準で判断するものなのか。

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 音楽評論家の人たちは、曲の良し悪しを判断する基準をもっていて(音色が少ない、必要な音だけで構成されているなど)、その理にかなっていることを前提とした基準を、適切な場面でもってこられたり、それ自体がユニークであったりすると尊重されるように思う。専門家になると時代背景も絡めてくるが、おれはそのへんにはあまり興味がないし、おれがやるべきことでもないと思っているので、そんなに重視していない。

 楽曲を評価するには、「いいと判断できる視点」と「わるいと判断できる視点」の両方をたくさん持っていて、それを自由に引き出して当てはめることができる能力が必要となってくる。おれはそれを養うために、音楽に詳しい人から「この曲をどうしていい(わるい)と思ったのか」という理由をできるだけ具体的に聞き出して、他の曲にも当てはめて判断するようにしている。その「音楽に詳しい人」が本当に正しいことをいっているかどうかは、普段の発言のセンス(他者にとって糧になる発言をするか否か)から判断するしかないんだけど。

 で、この曲はどう判断すればいいのかよくわからない。いろんな要素が詰め込まれていて、ただの四つ打ちに飽き飽きしている人にとっては退屈しのぎにはなると思うんだけど、かといって調和しているようには聞こえないし、エヴァのOPみたいにこちらの思考する速度をぶち抜いたスピード感と情報量で畳み掛けてくるような感じでもない。いいならいいという理由が、わるいならわるいという理由が必要になってくる。そしてそれを明言できなければ、それは思想とは言えないと思う。まあ「聴いていていいと思わない」なら無理して聴く必要はないけど、思わぬ視点を見落としている可能性がある。幽遊白書9巻にて「戸愚呂の恐ろしさがわかるのは オメーが強くなったからだ 桑原 敵の強さがわかるのも強さのうち」と言われていたように、自分が無知だからこそその良さを理解できていないのかもしれないし、そうでないのかもしれない。音楽の知識なんてなくても、いま自分の持っている視点と類推する能力があれば当該楽曲を評価することはできるし、むしろその能力のほうが重要なのではないか。日本語しか話せなくても海外で生活できるみたいな。まあ職人の道もいいと思うし、その結果がどう出るかは運でしかないんだけども。

 話ずれたけど、このアニメはごちうさきんモザが好きな人は見るんだと思います。おれはゆるゆりが好きなのでもう見ないと思います。

片渕須直「この世界の片隅に」 感想

 渋谷のユーロスペースで観てきた。友人から「戦時中ののんのんびより」と聞いていて(のんのんびよりは知らないんだけど名前から察するに普通な日常系アニメだと思う)、おおむねその通りだと思った。いや、日常モノというと大きく語弊があって、決して平和なだけな物語ではないんだけど。第二次世界大戦や、広島県呉市という設定が注目を集める物語だが、それは飽くまで設定でしかなく、たまたまその中に配置された人物がその世界で存在するために何をしているのか、ということが説得力を持った形で示されていた。もしかすると監督が戦争モノについて書きたかったかもしれない、とかいろいろあるけど。というかそもそもこういう作品は「この作品が伝えたいこと」などはどうでもよくて、ただ人物について描きたかったり、伝えたいことよりもっと重要なことが隠されていたりする(こういう作品というのは、ミステリーやサスペンスなどではなく、という意味)。

 例えば「聲の形」では、いじめや聴覚障害という設定がどうしても目についてしまい、メディアで取り上げられる際には必ずといっていいほどその設定をメインに据えた物語であると紹介されてきたが、この作品は、いじめはやめましょうとか、聴覚障害について考えましょうなどと言いたいわけではなく、聴覚障害は西宮硝子を構成する要素のひとつでしかなく、いじめはコミュニケーションによる結果でしかない、と作者本人からも明言されている(公式ファンブック参照)。本来ならば出てくることのなかったであろう性質がこのコミュニケーションによって浮かび上がり、そのうえで各々が各々をやりきるところが本当に素晴らしかった。植野は誰にでもハッキリものをいう強気な人物だが、島田の前ではそれを一切ださなかったり、川井は自分が可愛いということに気がつく前はごく普通の小学生で、いじめも見て見ぬ振りをしていたし、どんなに面白い人物でもその性質が日の目を見ることなく消えていくということはどこにでもよくある話だし、言い方は悪いかもしれないが、聴覚障害のない本来のコミュニケーションでなければ見ることができない一面だってあったはずだ。

 同じようにして「この世界の片隅に」でも、第二次世界大戦広島県呉市の設定をメインに据えた物語であると話題を呼んでいるが、戦争を忘れるなとか、命の大切さについて考えろなどと言いたいわけではなくて、戦争はすずさんが生きた時代を構成する要素のひとつでしかなく、すずさんの言動は単純にいうと、それまでためこんでいたものが一気に吐き出されたり、向こうからやってきたものに彼女なりの当たり前の対応をしているだけだったりする。

 公式ホームページの応援コメントを読んで、ゴスペラーズ黒沢薫が「まるで自分がこの物語の登場人物になったかのよう」と書いていて、おれも同じようなことを映画を観た直後に思った。というより、場所や時代は違えど、誰もがすずさんたちのように、出来事に対して当たり前の対応をしているだけで、やっていることは同じだと思った。帰り道、渋谷を駅まで向かっているときに、ずっとそのことについて考えていた。ここにいる人々はみな、向こうからやってきたものに対して反応して、歩いたり話したりしているんだけど、周りからの反応を何も受け付けず、自分を開始地点として何かを始められる人ってどのくらいいるんだろう、というかそんな人間は存在するんだろうか、と(起業するとかそういうことではなく、もっと原初的なもの。想像できないから何かに例えることもできないんだけど)。ただこういうのは、クリエイターがオリジナルを求めたがる一種のはしかのようなものに似ているようなきがするんだけど、そういうのともまた違うような……。

 すずさんがもしいまここに、現代に存在していたとすると、戦争の経験をもとに何かをするということはなく、ありのままの現代をいつものすずさんらしく、自分のできる範囲のことを基準にして、流れるまま流されるままに生きて、それで満足するのではないか……と思ったが、さすがに「戦争の経験をもったまま」現代にいるすずさんならそんなことはないか。ご飯を食べるときにも、一家揃ってうまいだのまずいだの一喜一憂したり、乞食の子供を家に入れたりなど、その時その時が「いま」として切り取られたような感じもするんだけど、その一方で「ストレスによるハゲ」「家の裏で晴美の名を呼んで嗚咽する径子 」「転がりながら布団の火を消す」「日本が負けて崩折れる」など、確かに地続きのように思える描写も存在していて、その影響はやはり戦争によるものが大きいんだろうけど。

 すずさんは不発弾に巻き込まれて晴美と右手を失う。現代の日本は平和で、戦争のような激しいことは起こっていないので、「右手を失った」という結果だけをもとに物語をひとつ書き上げることができるし、実際にそうなったとしたら誰もが特別視することになる。でも当時は誰もが同じ体験をしているからこそ、すずさんの右手に焦点があたることはあまりない。晴美を失ったことは径子とすずによって、右手を失ったことはすずによってしか焦点を当てられない。

ひなこのーと 1期1話

 オープニングとエンディングの曲がどちらも風変わりで、何度か聞かないとどういった流れの曲なのか覚えられないので、普通の四つ打ちよりは飽きにくくて楽しい。こういう曲を聴いていると、歌えるようになったら楽しいだろうなと思う。

 こういう対象年齢から思いっきり外れた(いや、むしろおれが対象年齢なのか……)アニメは気楽に見ることができていい。例えば京アニでは「響け!ユーフォニアム」の後に「小林さんちのメイドラゴン」の流れがすごくよかった。「響け!」という歴史に残る作品を魅せてくれた後に、また同じようなクオリティの作品を観るのはしんどい。精神的に。負荷がかかりすぎる。ここは「メイドラゴン」のほうがいい。

 気になったこと。

・なんでみんな敬語なんだ。